毎月2回、中国語の勉強会を受講しています。勉強会では、めいめいの受講者が関心を持った話題を中国語に書いてネイティブの先生から添削を受け、中国語で そのテーマについて会話をします。ここでは、その中で取り上げた話題を日本語と中国語(添削済み)で紹介し、中国語の記述や話題のポイントについても付け足します。

 中国近代文学を代表する魯迅は、医学生として仙台に留学していたとき、授業で上映された幻灯写真中の中国民衆の悲惨な情景を目の当たりにしたのを契機に、文学を志したそうです。 その前後のことは、彼の自伝的短編小説「藤野先生」を通してよく知られていますが、ここではごくかいつまんで中国語で表現してみました。

魯迅の仙台留学時代の恩師

 東北大学の史料館に、近代中国文学を代表する魯迅の記念展示室が設けられている。魯迅は、1904年から1906年の間、東北大学の前身である仙台医学専門学校で医学を学んだ。彼が医学を捨てて文学を志したきっかけは、在学中に見た日露戦争の幻灯写真に映った中国民衆の苦しむ姿であったという。解剖学の教師であった「藤野先生」こと藤野厳九郎が、筆記ノートを丁寧に添削して学業を助けてくれたことを、彼は後々まで忘れなかった。史料館のウェブサイトに、藤野先生が添削したノートや、別れのとき裏に「惜別」と書いて魯迅に手渡してくれた写真が公開されている。

鲁迅在仙台留学时代的恩师

  东北大学的史料馆里有一间纪念展览室,展览着代表中国近代文学的作家鲁迅。从1904年开始到1906年,鲁迅在东北大学的前身仙台医学专科学校学习医学。据说,他放弃医学,把志愿改为文学的起因是在讲课上看的一个日俄战争的幻灯片,在其中放映了中国民众遇害的场面。他永远也忘不了一个叫藤野严九郎的解剖学教师,称为“藤野先生”。藤野老师为了帮助他的学业细心批改他的讲座笔记本。在史料馆的网站上,公开了藤野先生批改的讲座笔记本和一张背面上写着“惜别”的照片,这是临别时交给鲁迅的。

 「医学を 捨てて文学を志 す」の後半を、単純な連動文に代えて、「把志愿改为文学」(志望を文学へ変える)とする辺りはなかなか思いつきません。おなじみの 把 構文ですが、気の利いた使い方はいつまでたっても難しい。「他永远也忘不了」は 辞書の例文を持ってきましたが、こういう文脈で「也」が自然に出てくるようにしたいところ。